今日は朝から学校ボランティア。
日頃、見守ってくださっている方々への感謝を込めて、
子どもたちと一緒に地域のお掃除。
土曜の朝は眠いけど(¯・_・¯) 元気な子どもたちを見ていると
寒さに負けていた顔も、次第にほぐされて、
いつの間にかみんな笑顔。素敵な時間でした。
学校と言えば、またまた小学校の学習指導要領が変わったようですね。
今回は特に国語が変わったようで、想像力を働かせる問いが多くなったそうです。
これは良い事じゃないかなぁって思います。
アインシュタインの
「知識なんてものは何にもならない、想像する事こそが全てである。」
“To know is nothing at all, to imagine is everything.” Albert Einstein
という言葉が染み入る冬の午後。
さてさてタイトルに書きました「やまなし」
お隣の「山梨(県)」ではなく、「(果物の)山梨」。
果物と言っても、「梨の原種」。
桜のような枝に、ひめりんごのような可憐な花を咲かせ、
サクランボ大の実を付けるバラ科の植物で、
物語にもあるように、この実は熟すととっても良い香りがするそうです。
(青果マニア?としては、機会があったらぜひ見てみたいです)
この「やまなし」をタイトルとした宮沢賢治の作品は、
随分前から小学校6年生の教科書に出ているそうです。
・・・といっても私の記憶には無く(忘れただけなのだろうか)、
気になると止まらない私(笑)は、早速読んでみました・・・今さらやり直す小学校6年生の国語(笑)
さてさて、
そこに出てくる「クラムボン」
学校で、この「クラムボン」って何だろうね?という謎解きを、
テーマごとに分かれて考える時間があったそうで、
教室内に張り出してありました。
この言葉に刺激を受けた子どもたちの小宇宙。
子どもらしくもあり、少し大人びているものもあり(笑) 楽しい展示でした。
この「やまなし」が発表されたのは、
今(2011年)から88年前の1923年(大正12年)4月8日の岩手毎日新聞。
読み始めると、次々と出てくる色の描写に圧倒されます。
素晴らしい色の描写が心に優しくぶつかり、
あたかも水中にいるかのような錯覚を起こしました。
そして、彼ならではの不思議な言葉にも引き込まれます。
様々な気持ちを投影する事が出来る賢治らしい素敵な言葉でもあり、
彼の中の小宇宙や洒落っ気を感じる「クラムボン」。
みなも(水面)に浮く「ぷかぷか」も、水中から見上げると「かぷかぷ」。
読めば読むほど、魔法にかかったかのように、
童心に返るでなく、童心を呼び戻され、
どんどん賢治の世界に引き込まれていく不思議な作品をまずはご一読ください。
→「やまなし」宮沢賢治
この前年、1922年(大正11年)11月27日に最愛の妹「トシ」永眠。
賢治26歳、トシは24歳でした。
そうした事を考えながら、今一度読み返すと、
また違った景色が、心に映り込むかもしれません。
こんなに素敵な物語に触れられるって、
小学校の国語も楽しそうだなぁと・・・今さら(笑)
☆ここからは賢治のやまなしを読んだ私の勝手な緑色の想像・解説です。
最初に気になったところは、
梅好きだからでしょうか・・・発酵の部分(笑)。
やまなしから出来るお酒というのはどんなだろう?と思いつつ、
微生物のお仕事がさらりと紹介されているのは、
農学者の賢治ならでは。ちょっと刺激を受けました。
読み終え、最初に頭に浮かんだのは「命」「魂」「輪廻」。
確か・・・と思って、宮沢賢治の年表を見ると、やはり。
この作品が発表された前年に妹「トシ」を亡くしていました。
そしてもう一度読み返すと、
妹への想い、妹を亡くした哀しみ、たくさんの感情が溢れ出てきました。
最愛の妹を想う兄の心に、
子どもの頃の想い出や、大人になってからの想い出が蘇ります。
兄の想い出では、妹はいつも溢れんばかりの笑顔。
素敵な想い出が瑠璃色のシャボンに映り込んだ景色のように、
現れては消え、また現れては消え。
その中には、楽しく川遊びをしている兄妹の姿や、
麦わらでシャボン玉遊びをする兄妹の姿もあったかもしれません。
妹を失った今となっては、儚く消え行くシャボンのような想い出。
水中からみなもを眺める素晴らしい描写では、
クラムボンという不思議な言葉に置き換えられ、
生きとし生けるものの宿命を感じさせてくれます。
素敵な想い出の中で笑顔溢れる妹。
でも何で妹は笑っているのだろうか。
彼女は若くして亡くなってしまったのに、
何故想い出の中では笑顔でいてくれるのだろうか。
兄は疑問に思い、弟に投げかけますが、
弟は答えます。「知らない」と。
そんなやり取りをしていると、
頭上に銀色の腹をひるがえして泳ぐ一匹の魚が現れます。
水中が、カニや魚の生きる場所(現世)ならば、水上(地上)はあの世。
みなも(水面)は現世とあの世の境目。そんな事を感じさせる魚。
魚が視界から遠ざかると、
弟は言います。
「クラムボンは死んだよ。」
「クラムボンは殺されたよ。」
「クラムボンは死んでしまったよ・・・・・・。」
「殺されたよ。」と。
妹の想い出を映し出すシャボンであった「クラムボン」が、
妹そのものになり、弟の言葉に兄は激昂します。
「それなら、なぜ殺された。」と、問いただします。
でも弟にも「分からない。」問いでした。
今では、栄養状況・生活の向上、医療技術の進歩で、
平均寿命も82歳前後となりましたが、当時は60歳前後だったそうです。
(※江戸時代〜明治頃の平均寿命は推定60歳前後と言われています)
今に例えれば、40歳に満たない妹。
自分の一番の理解者であった妹を、若くして亡くした兄の心の奥底に映る幻から、
「若くして病に殺された」妹の死を、受け入れる事が出来ない、
納得出来ない気持ちを、弟を足蹴にする行為から感じました。
やがて魚が頭上に戻ってきました。
それに気付いた弟は言います。
「クラムボンは笑ったよ。」と。
そして兄も「笑った。」と感じ始めます。
黄金色の日が差し、
鋼のように青く暗い水中も明るくなりました。
妹が「笑った」事を感じた事で、
賢治の心に一筋の光が射し込んだのかもしれません。
一時の夢幻で救われたかに見えた賢治の心が、やがて曇り始めます。
救いの光を無情にかき消すかのように、
縦横無尽に泳ぐ魚が現れます。心にかかる暗雲。
なぜ魚はそんな事をするの?と兄に尋ねると、
兄は「悪い事をしている。取っている。」と答えました。
「取っている」というのは補食しているという事でしょう。
プランクトンや小魚などの小動物を食べて生きる事は、
そのものの命を奪って生きているということ。
魚に限らず、人も様々な生き物の命を奪って(食べて)生きています。
賢治にとっては、この「生きる為に他の動物の命を奪う」という行為は、
悪い事(認められない事)だったのでしょう。
私の心にずっと残っている「注文の多い料理店」を思い出しました。
こういう経験って誰しもありますよね。でも生きる為に食べるのが人間。
だからこそ命を供してくれた生き物(食材)への感謝を込めて、
食べる前には「(命を)いただきます」という言葉や、食べ終わった後は
「ごちそうさま(食材を調達してくれた・作ってくれた事への感謝)」という言葉が
あるのだと思っています。
「魚の開きがそのまま泳いでいる」という冗談のような話も聞きますが、
こうした事を忘れがちな現代社会。とても大切な言葉だと思います。
そして、悪い事をしている魚はどうなるか。
突如現れたカワセミに鋭い嘴(くちばし)で捕まえられ、
水中から水上へと連れて行かれました。
地獄の閻魔様は、人がこの世で生きていた時の
「善行」「悪行」で裁きます。そして生まれ変わる世界が異なります。
魚は帰ってこないでしょう。
「(賢治の考える)悪い事(生き物の命を奪っている)」をしていましたから。
「こわいところへ行ってしまいました」
魚が捕まえられる姿を目の当たりにした兄弟は、
おぼろげながら「死」というものを意識し、怯えます。
そこに「カニの父親」が心配そうに現れ、子どもたちに諭します。
「おれたちはかまわないんだから」と。
小魚が主食のカワセミは「カニを食べない」という意味や、
「悪い事をしていないんだから大丈夫」という意味を感じます。
「死」から自分の「生」を意識する事は良くありますし、
それを「大丈夫」と言える存在は、絶対的な存在である「父」。
今風だとお父さんの立場は弱くなっているらしいので「?」かも知れませんが(?)、
古い家だと「父=家長(一家の主)=絶対の存在(否定出来ない存在・言動)」。
水面には花びらが流れてきます。
あたかも魚の死を弔うかのように。
—ここまでが「一、五月」を読んだ想像の世界 —
(勝手な解説になっているような気も・・・)
いったい何人の方がここまでご覧になっているだろう!?
という不安(笑)を感じつつ、このまま頭の中の言葉を書き綴ります。
出さないと落ち着かないというか・・・記事というよりはメモのような。
これでも随分圧縮して文字にしているのですが、
文章力があればと思うのは毎度の事(^-^;)
そして二枚目の幻灯。
最初に読んだ時、一番印象に残ったのが兄弟の会話。
そして「クラムボン」というものをうっすらと意識し始めました。
シャボン玉遊びをするカニの兄弟が、シャボンの大きさを競う描写は、
自分と妹の想い出。一番生き生きと描かれ、とても楽しい雰囲気。
妹「トシ」の事を知り、二回目に読み返している時、
いろいろな想いが込み上げてきました。
そして、生き生きと見えた描写も、
雲がかかっているように思い始めました。
「シャボンの大きさ」という暗雲。
泡の大きさを比べる兄弟。
兄の方が大きいが、弟は僕の方が大きいと言い張る。
そして絶対的な存在(父・運命)がその答えを出す。
「兄の方が大きい」と。
それを聞いた弟は泣きそうになる。
妹を亡くし、生き残った兄。
命の大きさは妹の方が小さかった。
泣いているのは兄の賢治かもしれませんし、
妹の気持ちを代弁しているのかもしれません。
楽しいはずの描写が、
一変して心の奥底に深く突き刺さる描写へと変化した瞬間、
何かが頭上から落ちてきます。
子ガニは「カワセミ」がずっと気になっていたので、
「カワセミ」と勘違いしますが、それが何なのか、父親が確かめます。
それは「やまなし」でした。
みなもに浮かび川に流され、木の枝にひっかかって止まります。
追いかけていたのは「横歩き(カニの親子)」と、
底の影「法師」。合わせて六つ・・・カニとともにお坊さん。
悪行を働いた「魚」の時(散った花びら)とは違い、
「妹の弔い」の為にお坊さんが三人。
手厚く弔う事で、妹は「天国」へと旅立って欲しいという
願いが込められているように感じます。
その願いは「やまなし」の変化を語る「父」によって、
間違いない事と確信出来たのではないでしょうか。
「やまなし」は、食べ物として現れたわけではなく、
妹の来世を暗示させてくれる例えとして現れたように感じます。
それは良い香りで、おいしそうな素敵な世界。
あの世とこの世の境目「みなも(水面)」から、
二日待てば水中に落ちてくる(生を受けこの世に戻ってくる)。
そして、人々を喜ばすお酒として
生まれ変わる(微生物の働きによって発酵する)という輪廻。
それを絶対的な「父」が言うのだから間違いない事。
だから安心しようと、自分に言い聞かせているようにも思えます。
前半ではやりきれない想いが綴られ、哀しみの元が語られましたが、
後半では、その哀しみを受け入れ、来世で妹は、
必ず幸せになるという希望を持つ事で、自分の中にある感情に
一区切りをつけた作品と感じます。
作品を作っている時は、寝食を忘れるぐらいそれに没頭し、
そしてそれを発表した時、自らの手から離れる事で寂しさを感じるものの、
次を作ろうという気持ちが現れる事を、経験していたからこそ、
こうした物語を新聞で発表したのだろうなぁと思いました。
賢治の祈りが届いたのか、
親子のカニは「それぞれの穴」に帰っていくことができました。
☆私の想像はこれでおしまいであります。
○クラムボンについて
言葉遊びならば、「クラムボン」とは、
蟹(Crab)が吐き出した泡を、シャボン(Savon)に例えた造語というようにも
感じられますが、賢治の「クラムボン」という言葉の本当の意味を
簡単に文字にする事は難しそうです。
素敵な小宇宙に触れただけでも幸せですし、
それ以上を考える事は、野暮なのかもしれません。
それは彼の奥底に潜むものであり、彼の素敵な想い出だから。
来年の今頃、検索でたどり着くちびっ子もいるであろうことを想像しつつ(笑)
○クラムボンってなんだろ?と思って、ここにたどり着いたあなたへ
あなたにとって、クラムボンは何色に見えたかな?
たぶんそれが答えだと思うよ(^-^)/
【おまけ】
本文中「5月」「12月」とありますが、
草稿(下書き)では「5月」「11月」だったそうで、
新聞が誤植であったのでは?という考え方もあるそうです。
暦の上(二十四節気)では、5月が立夏、11月が立冬なので、
暦に合わせると5月・11月という下書きの方が釣り合っているようにも思えますが、
発表する作品では、敢えて現在の「心の居場所」でもある12月としたのではないでしょうかね。
(サブタイトルを考える時って、こういう事ありますよね)
また、前出の「やまなし」が熟す時期から考えると、
秋〜秋の終わり(11月)では?と考える事が出来ますが、
農学者でもあった賢治がこうした自然の韻律を間違えるはずも無く。
では何故12月にしたのか?という部分に想いを巡らせるのも、
この物語を近しく感じるために必要な想像力なのかもしれません。
流れ着き、とどまり、やがては水中に落ち、
そして腐敗・発酵を経て生まれ変わる「やまなし」の刻む時と、
カニの親子が見ている「やまなし」の刻む時は、
必ずしも一致しないところに、賢治の心の痛みを感じました。
冬の始まりではなく、正に極寒の冬を感じる12月には二つの節目があります。
雪が降り始め、熊が冬眠を始める「大雪」と、
植物が息絶えそして生まれ変わる「冬至」。
後者の「冬至」は、一年のうちで最も昼が短く、夜が長い日。
光と闇の時間軸が交差するこの日を境とすることで、
己の心、そして魂が救われる事への祈りを込めたようにも思えました。
3.11から明日で9ヶ月。
かぷかぷ笑う子どもたちの笑顔、そして未来が、
金剛石の粉輝く明るいものにならん事を願って。
2011.12.10 SShin1
P.S.
アインシュタインはこういう言葉も残しています。
「知識の源は経験である」と。
“The only source of knowledge is experience.” Albert Einstein
昔から「よく学び、そしてよく遊べ。」と言われていますが、
昨今子どもたちの置かれている環境は、ややバランスを欠いているようにも思えます。
未来を担い、将来を想像する子どもたちに、本当に必要なものは何だろうか?と、
自分たちが子どもだった頃を思い出し、今一度考える必要があるように感じます。
ネットワークを使った疑似体験よりも、
日々の遊びから得る経験こそが知識の源であるならば、
答えはきっと簡単。